mysteryhunters room
 
考古学は様々な在野の痕跡から包括的に推考される“古代学”!
その最たる発見者は地域に根差す発意。まさに日本考古学の森浩一先生が「最も尊ぶべきは“町人学者”と称した一言に表意されます。
ここでは在野から着眼の声を集積。有間皇子に纏わる太古かなめの時代を解明への一投を様々にupします。/その紐解きは民意のミステリーハンターが握っているのかもしれません。
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当ミステリーハンターの部屋の取り組みや、各執筆者へのご意見ご感想は、当『東山の森 Ark〜』HPのEmailまでお寄せください。【E-mail:ark-info@arima-higashiyama.com】

■方位に基づく参照/東山の森Arkより
古代、国を総じて行われた測量が、有間皇子の父・孝徳天皇が国司(地方長官)に発した田図の作成と『日本書紀』に記されています(大化2年/646年)。
この大化の改新に発する国郡図が現在の分県地図の元ともいわれ、その後の「方格図法」による墾田図などが世界最古の地籍図です/他、勾股弦(コウコゲン)の法など。(正確に子午線の長さも計測できるほどの精巧度)。
★その確率の頃、創建造営されたのが岩内1号墳と道成寺なのです。
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※尚、道成寺〜岩内1号墳の南北方眼位置の発見は『御坊・日高に眠る古代史開眼講演シンポジウム(2012)』で、森浩一先生より新説発見として公表。
当、東山の森Ark マイスターの部屋【額田のM】で先行掲載により発表されています。 
→2015御坊市制施行60周年誌に記録記載。

ハンドルネーム「うおきゅう」(先祖-魚屋「久兵衛」の屋号より)さんの部屋を本日「友を惹く」=友引の日に開設!
 創意解明に富んだ“うおきゅうさん”道成寺お膝元の地から描かれる推考の世界を堪能ください(随時upへ)
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[Vol.1]
岩内1号墳〜道成寺〜丹後国一宮 籠(この)神社の秘密 歴史から隠された有間皇子の子「日下部表米」

道成寺のご本尊「千手観音様」が見つめる先(真南方向)に有間皇子が眠るとされる「岩内1号墳」が造られています。
 道成寺と岩内1号墳/南北位置 
この「岩内1号墳」と「道成寺の千手観音」を結んだ直線をさらに北方向へ延長させると、京都府宮津市の「天の橋立」近くの、丹後国一宮である「籠(この)神社」本殿に到達します。
 籠神社  
			        
「岩内1号墳」と「道成寺の千手観音様」と「籠(この)神社本殿」は、不気味なほど一直線上に並んでいるのです。偶然にしては出来過ぎで、なんらかの意図をもってこの位置に造営されたのではないかと思うのです。
 籠神社と岩内1号墳 /一線上位 
  
但馬國造の日下部氏の始祖である日下部表米は孝徳天皇の孫、つまり有間皇子の子であるとされる系図が存在しているようです。(「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録)
この系図は歴史研究家の主流では信用できないとされていますが、私は籠(この)神社と関係の深い日下部氏であり、有間皇子が眠るとされる「岩内1号墳」と「道成寺」「籠(この)神社」が一直選上に並んでいるという不思議な位置関係から「日下部表米」は孝徳天皇の孫であり有間皇子の子であるとされる系図の方が正しいのではないか思います。
養老三年(719年)に現在の位置に籠(この)神社は遷宮されたのですが、この位置に「籠(この)神社」を建てたのは「日下部表米」ではないかと思うのです。
「日下部表米」が、父「有間皇子」の眠る「岩内1号墳」から「道成寺」を通る直線の北延長線上に「籠(この)神社」を建てたのではないかと思うのです。
現在最新の測量技術である人工衛星を使ったGPS測量並の正確さで延長188キロの直線上に、「岩内1号墳」「道成寺」「籠神社」を配置した古代の技術に驚くとともに、文字に残せず日本の正史から隠された秘密を解く鍵を「日下部表米」は、この位置に配置することで未来の私達へメッセージを残したのかもしれません。
さらに正史では、11歳で遣唐使で唐に渡った「定慧」は中臣鎌足(なかとみ の かまたり)の長男で藤原不比等の兄(異母兄説もあり)とされていますが、孝徳天皇の子、有間皇子の異母弟であるという説もあるようです。
兵庫県三田市にある「定慧」が建てた「金心寺」も「岩内1号墳」「道成寺」と不思議な位置関係に建てられていたようなのです。・・・・続く

[Vol.2]
歴史から隠された有間皇子の弟

日本の正史では有間皇子の兄弟について書かれていませんが、どうも弟がいたようなのです。 藤原一族は長い日本の歴史で、平安時代から摂生関白をほぼ独占し、最近では細川元首相など日本の政治中枢に君臨続けている藤原一族ですが、その藤原一族の始祖となったのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。 鎌足さんの子供は藤原不比等が有名ですが、不比等さんには真人(まひと)さんというお兄さんがいたのです。
 定恵上人

この「定恵」さんが、どうも有間皇子の弟のようなのです。
一般的には「定恵」の母親は、複数の史料にある車持国子君(くるまもちくにこぎみ)の娘とされますが、『日本書紀』では阿倍氏の娘となっています。
中臣鎌足の奥さんは、第36代孝徳天皇の寵妃であった女性を賜ったとされています。奈良時代のこういうケースの場合、女性はすでに妊娠している事が多々あり、つまりは、お腹の子供ごと賜ったのかもしれません。 となると、この定恵の父親は鎌足ではなく、孝徳天皇の可能性も否定できないわけです。
日本で最初の仏教通史『元亨釈書』では「定恵」を孝徳天皇の子と明記しているそうです。 有間皇子の弟かもしれない「定恵」が唐から帰国し開いたとされるのが兵庫県三田市の「金心寺」です。
 金心寺(金剛不壊心寺)/三田市
「金心寺」には「有間皇子」は「定恵上人」の実兄であると伝わっています。
道成寺の北東方向に「奥の院観音堂」というお堂が建てられています。この「奥の院観音堂」が不思議な位置に建てられているのです。
「岩内1号墳」と「奥の院観音堂」を結んだ直線をさらに北方向へ延長させると、兵庫県三田市の神明神社に至ります。
 三田市神明神社と岩内1号墳
 		        
この神明神社の由緒は、永澤寺開山の僧が法を説く地を探していたところ、五十鈴川の神と名乗るものにこの地に導かれたという話が、後圓融天皇の耳に入り、建立されたとしています。 「金心寺」の大伽藍があったのは神明神社の北西約1.7Kmの有馬高校のあたりですが、「岩内1号墳」と「道成寺奥の院観音堂」の延長線にある神明神社の位置に「定恵」が兄である「有間皇子」を弔うお堂を建てていたのではないか思うのです。そして約600年後の後圓融天皇の時代(この時将軍は足利義満)に永澤寺開山の僧がこの地に導かれたのではないだろうかと思うのです。
道成寺の「奥の院観音堂」には、平城京、法隆寺へとつながる秘密がこめられているようなのです。・・・・続く
 道成寺奥の院観音堂からの方位 
	          

[Vol.3]
道成寺から法隆寺夢殿、薬師寺、平城京を結ぶ直線の謎 法隆寺夢殿に封印されていた「救世観音像」は「有間皇子」かもしれない

法隆寺夢殿の救世観音像は、明治17年にフェノロサ、岡倉天心、加納鉄斎によって開扉されるまで、秘仏として誰も姿を拝む事が許されず
500ヤードもの布によって包まれ、封印という言葉にふさわしい状態にありました。
 法隆寺 夢殿                
救世観音像の由来については、『日本書紀』『古事記』法隆寺関連史料など、いかなる史料にも記されていないそうです。法隆寺東院伽藍の本尊として、一千年以上にわたって長大な布によって覆われていた謎の仏像なのです。
	 救世観音像   
一説には、救世観音像は聖徳太子の姿を模して造られ、聖徳太子の祟りを畏れた藤原氏によって布に包まれ封印されたのではないかとされています。 天平9年(737年)に疫病が流行し藤原不比等の息子達「藤原四兄弟」をはじめ政府高官のほとんどが死亡するという惨事が起きています。
この惨事を「聖徳太子」の祟りとして法隆寺夢殿に救世観音像を封印したのではないかとされています。 私は夢殿に祟りを畏れて封印されたのは「聖徳太子」でなく「有間皇子」ではないかと思うのです。
「有間皇子」は、「中大兄皇子」と藤原氏の始祖で藤原四兄弟の祖父である「中臣鎌足(後の藤原鎌足)」の謀略により処刑されたのではないかとされています。
100年以上過去に亡くなった「聖徳太子」よりも、藤原一族の始祖「中臣鎌足(後の藤原鎌足)」が直接関係した「有間皇子」の祟りを畏れたのではないでしょうか。
和歌山県御坊市の「岩内1号墳」は「有間皇子」が埋葬者ではないかとされ、道成寺は「岩内1号墳」との位置関係から「有間皇子」の鎮魂の目的で建てられたのではないかと思うのです。
道成寺の北東の丘の上に「奥ノ院観音堂」というお堂があります。道成寺から奥ノ院観音堂を結ぶ直線を北東方向へ延長すると、なんと!!「法隆寺夢殿」に到達するではありませんか!!
さらにこの直線を延長すると、薬師寺を通り平城宮東院庭園に至ります。
       道成寺から法隆寺
		        
単なる偶然にしては、出来過ぎのように思います。祟りを畏れて奈良の都から遠く離れた紀伊国の日高川の対岸に有間皇子を埋葬し、鎮魂の道成寺を建て、平城京東宮と道成寺を結ぶ直線上に夢殿を建設し「有間皇子」を模した「救世観音像」を封印したのではないかと思います。
 
 平城京〜法隆寺〜岩内1号墳
意図してこの位置に建てられたとすると、現在最新の測量技術である人工衛星を使ったGPS測量並み正確さで建てられています。古代奈良時代には現代に伝わっていない測量の秘法があったのかもしれません。・・・・続く